自己愛性人格障害(373) 思想信条の自由の悪用 3「他人を不幸にする人」

日本国憲法で思想信条の自由が謳われているのは、心の中の事は強制出来ないからである。だから好きか嫌いかなど強制出来ない。それは致し方ない。人生において恋愛と失恋は誰しもが経験するだろうが、なぜ失恋があるかといえば、相手に恋愛感情を強要できないからである。自分がどれだけ菊池桃子さんが好きであっても、彼女に自分を好きになれと強要することは不可能である。好きになってもらいたいと努力する事は可能だが、それが必ずしも実を結ぶとは限らない。「好き」という感情を持つ事は構わないが、その発露がストーカーや嫌がらせでは逆効果であろう。

逆に「嫌い」という感情もまた、心の中の事だから強制は出来ない。ツイッターで「幸せになる人は、自分を不幸にする人を切っている」という言葉を見つけた。なるほどその通りであるし、ワシもそれが人格障害者に対する唯一の対処法だと思っている。しかし不思議なのは、なぜ「他人を不幸にする人」というのが存在するかという事である。こちらが普通に幸福になろうとしているのを、意図的に妨害する奴がいる。他人が幸福になるのを邪魔する奴がいる。

モラハラ夫の特徴として、妻が楽しそうにしていると不機嫌になる、というのがある。他人が楽しそうにしているだけで不機嫌になり、幸福になろうとするのを妨害する奴というのがいる。それが人格障害者である。ワシとてザマ―ミロという感情はある。嫌いな奴は不幸になれと願っている気持ちはある。人格障害者など全員死ねと思っている。

しかし、ここが人格障害者との決定的な差だが、不幸になれとは願ってはいても、相手が不幸になるよう自分から動くことはない、という点である。この「不幸になるよう自分から動く」のが、人格障害者どもの悪口や嫌がらせ。「妬み」「悪口」「嫌がらせ」これが人格障害者の三種の神器である。妬みを動機とし、悪口と嫌がらせで他人の幸福を妨害しようとする。

他人の幸福を妨害しようとする。
この人間としてクズなことを人格障害者どもは行なう。
そしてクズだとわかっているから、指摘されても「やってない」と嘘をつく。
その内、嘘が本当のことに変換されて、本当に何もやってないと思い込む。

これは次の項の前フリである。
続きはまた次回に。

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