自己愛性人格障害(372) 神はいない
「神は死んだ」とはニヒリズムを象徴するニーチェの有名な言葉である。「死んだ」という事はかつては「存在していた」とニーチェは認識していたのであろう。しかしジョンレノンは「神とは我々の苦悩を測る概念である」と述べている。同様の考えとして奥崎謙三は「神というものは人間の作ったもの」と言う。ワシもこの考えに同意である。神はもとより存在しない。神様などいない。神とは人間が作ったものである以上、人間を超越する存在たりえない。単なる信心に依拠する人間の思考の範囲内の概念に過ぎない。人智を超えた存在など、この世にもあの世にも存在しない。
西村京太郎は、幼い頃なぜ心の優しい人にまで不幸が訪れるのか、ずっと不思議に思っていたという。野村サッチーは若い頃から虚言癖がある巨額脱税の強欲ババアで人間として最低だと息子から暴露されている。それでも天寿を全うして畳の上で死んでいる。溝口敦に「ヤクザの女ではなく、彼女自身が女ヤクザである」と書かれた細木数子もおそらく天寿を全うするであろう。片やワシの実の祖母や小林麻央は、幼き子供を残して無念を抱きつつ30代前半で死去している。ワシの35年来の親友は、昨年交通事故で小学生の息子を亡くした。まだ小学生なのに天罰を受けるような行為などなかっただろう。
世の中には死んだ方が世のため人のためになる連中は大勢いる。日本に死刑制度があるのは、死んでしか償えない行為をする連中がいるという何よりの証明である。宅間守の人生を辿ると、例え池田小事件を起こさずとも、世の中に何ら寄与しないどころか、生きているだけで害悪を与える存在だったというのがわかる。本当に神様がいるなら、そういう連中から先に選んでいくはずではないだろうか。ワシが神などいないと思うのは、そういう点である。
ワシは基本的に宗教は信じない(国家神道は宗教ではない)。世界の紛争の多くは宗教対立が原因である。宗教で救われる人もあるだろうが、それとは比較にならないくらい多くの人々が宗教が原因で死んでいる。津山事件で生き延びた老婆は「若い者が死んで、こんな年寄りが生き残るとは、神も仏もありゃせんのう」と嘆いた。元よりそんなものは存在しない。
「心にナイフをしのばせて」というノンフィクションがある。1969年に起きた中学生の少年が同級生を惨殺した事件を追ったノンフィクションである。被害者家族は事件を境に崩壊状態に陥る。少年の母親は寝込んでしまい数年間の記憶がないという。賠償金の支払いも遂行されず、それでも犯人は反省し、事件のことを悔いているだろうと被害者の母親は数十年間ずっと信じていた。ところが犯人は少年法で前科がつかず、名前を変え弁護士となり、ヨット趣味をブログで綴るなど優雅な人生を送っており、賠償金は払うつもりはないと取材に対し開き直った。その状態が世間に知れたのは先述の「心にナイフをしのばせて」が出版された事件から37年後である。この37年間、被害者家族は崩壊し、加害者は成功し人生を謳歌している。
あれは、まだ、私が神様を信じてた頃・・・さだまさし「雨やどり」の一節である。ワシは今まで人格障害の連中には天罰がくだると信じていた。神の所作による天罰という意味ではなく、人格障害者自身の人間性を要因として幸福にはなれないと信じていた。例えば人格障害者どもは平気で嘘をつく。必ず何らかのトラブルを起こす。最初は騙せても、正体に気付いた人から離れていくに違いない。そして遅かれ早かれそのような結末が待っていると思っていた。しかし世の中、必ずしもそうではないという例を数多く目にしてくるに至り、ますます神様などいないと思うようになった。
人格障害者どもには、いずれ天罰がくだる。そう信じて人格障害者どもを看過してきた部分は多々ある。自分自身が手をくださずとも、いずれ人格障害者どもは不幸になる。そう考えて人格障害者っぷりを発揮しているのを冷ややかに見ていた。しかし神は天罰を施すどころか、まるでそれがなかったかのように、むしろ人格障害であることが奏功するような結果になっているのを目の当たりにすると、何ともやりきれない思いになる。神の視点では人格障害もそうでない者も大差はないのだろうか。道徳的にこちらが優っているという点において自分を納得させていた部分が、世間では正反対の認識になっているのが、どうもやりきれない思いになる。
おまえら、あの異常性になぜ気付かない?
私も同様のことを思っていましたが、私が自作のシナリオでこんな事を書いていました。
「おかしいと思う気持ちは否定しない。でもな、アイツらが幸せなのはな、たとえ報いを受けても、幸せになる事を諦めずに乗り越えたからだ」
あと、終物語(中)で、こんな台詞もあります。
「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」(斧乃木余接)
人格障害は、憎むべき存在ですが、報いを受けても、自分の幸せを諦めないタフさは見習った方が良いでしょう。
参照
https://ameblo.jp/u-yttrium/entry-12108405194.html
確かに..
奴等は自分の得のためなら手段を選ばないですね
おはようございます。
若いころ読んだ小説で、マルキ・ド・サドの
「美徳の不幸」「悪徳の栄え」ってのがあります
怪しいタイトルどおり善の人ジュスチーヌと
その姉、悪の女ジュリエットの物語で
善のジュスチーヌには次から次へと不幸が襲い
しまいには雷に打たれて死にますが
悪のジュリエットは、まさに悪徳ざんまいに
人生を謳歌するという、納得いかない小説です
ところがその解説を読むと
善のジュスチーヌは、善人だが
不幸に飲み込まれ、あるいは不幸を受け入れて
いわば「何もせず」生きたので
雷に打たれて死んだ、的なことが書いてありました
まじで?そういうオチ?と
ある意味目からうろこでした
それっぽい意味で言えば、超有名な映画
「風と共に去りぬ」の
スカーレット・オハラが
命からがら戻ってきたのに
南北戦争でタラの家は見るも無残
ボケたお父様と無力な妹連中と使用人と
生まれたばかりの赤ん坊と、病弱で産後のメラニーを
養ってかなくちゃならない
そこでスカーレットは神に誓います
生きるためには盗み、嘘をつき、人も殺すでしょう
でも家族を飢えさせません、飢えに泣かないと誓います
つまり、ハラくくったもんが生き残るという事か
ただし、これは我々ノーマルな人たちに言ってることで
キ●ガイどもは、ハラくくって生きてない
くくってないから、たらたら嘘ばっかりつくし
そもそも幸せじゃないし
かと言って不幸でもなきゃ理不尽な扱いも受けてないくせに
その、可もなく不可もない平凡な自分を受け入れない
やつらの生き様に、見習う点はひとかけらもないです。
私も同じことを思います。
できれば自分も善人でありたいですが、自己愛の多いこの世を生きるのに「善」な性質は損ばかりな気がしてきます。
いろんな被害者さんのブログを眺めてると、皆さん被害に遭ってズタズタな身の上なのに、どこかで相手の自己愛さんを「治してあげたい、どうにか治らないのかな」と心配する節があり、身を挺するまでの優しさを持つ方が多いです(たとえそれがAC的性質だとしても)。
いっぽう、傷つけた自己愛さんのほうは「してやったり」と被害者の方に勝ったつもりでほくそ笑みつつ、次のターゲットを探して目をらんらんと輝かせ、すべてが思い通りです。
これでは被害者の側が、あまりにも報われません。
私の相手は、私をやっつけた(と思った)時からこれまで以上に増長しました。
いっぽう私は逃げ、身を潜めています。SNSは抹消し、まるで犯罪者のように隠れ隠れ暮らしていかなくてはいけない。敵に見つかるわけにはいかないので。
私自身、自分が善な性質とも思っていませんし、敵に付け込ませる原因があったことも分かっていますが、ここまで精神や暮らしを木っ端微塵にされるいわれはありません。
悪貨は良貨を駆逐するのは世の必定なんでしょうか。天罰は存在しないのですね。非情すぎます。
まったくです。もし神なるものがいたとしたら、宇宙一意地悪で残酷な奴とすら思います。
が、世の中の理不尽に遭遇すると、善良な一市民として細々と生き人様に迷惑はなるべくかけずちょっとでも誰かのお役に立てれば、など考えている人間の力ではどうにもならないとなると、わかっちゃいるけど神様が何とかしてくれるんじゃなかろうか、悪いやつには天罰が下るとか浅ましい考えがよぎっちゃうんですよね。自分じゃどうにもできない時には正義の見方が現れて助けてくれる。永遠の理想です。叶わないけど。
おはようございます
神様とは不思議なものですね
存在を信じる人もいれば信じない人もいるし
信じてる人でも、抱くイメージはバラバラ。
何か、とんでもないことが起こるたびに
天罰だの、神のくせに役立たずだのと
悪者にされるし(苦笑)
「お前ら人類に、知恵は授けたかもしれないけど
その知恵の使い方までは指示してないぞ
やれ、便利だ、ラクだ、金が儲かるぞと
知恵を使っていろんなモノや事を考えつくのは結構だけど
その結果大勢殺しあったり、騙したり、
かたや金持ち、かたや貧乏
不公平じゃ理不尽じゃと のたまいやがる
あるいは
おまえんとこの神様より、オレんとこの神様のほうが
エラいんだ、正しいんだ
俺たちこそ神様に選ばれた種族だけど、
お前らは違うだろ、なに威張ってんだ
俺の言うことこそ真実だ
否定しやがるヤツらは気にくわねぇ
殺してやるぜ、と
わしを口実に殺し合いすんの、ヤメてくんないかな
いつわしが、そんなこと頼んだよ?」
…と、わたしが神様なら、こんな愚痴を言いそう
わたしが、神様ありがとう、と思うのは
キ●ガイどもは たしかに存在する
けど その事を解ってくれる人が実は大勢いる
ここにコメントを寄せてくる人たち
コメントしなくても、どこかで共感してる人たち
その存在の、心強いこと
昨年の今ごろは、ワケもわからず、扉も開かず
暗闇の中を一人で もがいていた気がします
名前も知らないし、会ったこともなきゃ
声すらも聞いたことがないけど
私の苦しみや怒りや絶望感を
自分の事のように感じ取って共感してくれる人が
大勢いる
そして、その事を私自身が知っていることです
そもそも道徳や倫理、物事の善悪等というものは人間が決めたものですから
仮に「神」に当て嵌まるような存在がいたとして、人間が勝手に決めたルールに沿って人を裁く・天罰を下すとは限らないのではないでしょうか
私も宗教上で設定されているような都合の良い神や仏がいるとは思いませんが
人間よりも高等で、人間とは違う感覚の、人間には感知出来ない「神」に似たものは存在するかも知れないと感じることがあります