自己愛性人格障害(368) 扉の先にある景色
人格障害はプロであるカウンセラーや精神科医ですら本当に理解しているとは言い難い。ワシは行ったことがないが、実際に相談に行ってあまりの無理解にガッカリしたという人もいる。本来プロとそうでない人の間には大きな隔たりがあり、プロだからこそ持っている知識や技術にお客は対価を払い、プロだからこその対応をするのが世の中の職業の常である。しかしこと人格障害に関しては、プロかどうかという区別は意味をなさない気がする。理解の壁という隔たりを分けるのは、実際に被害に遭ったかどうか、これに尽きる。実際に被害に遭ってみないと、現実にどのようなものか理解し難い。しかし実際に被害に遭った人ならば、説明されなくとも、どのような状況か理解出来る。これをワシは「扉が開いた」と表現している。
ワシの「扉」はどれくらい開いているのだろうか。全開の状態がどのようなものなのかわからない。実を言うと、今でも新たな発見があり、過去を振り返って、ああそういうことだったのかと納得する事は多々ある。今は、相手が人格障害者であれ、ある程度は適切な対応できる自信はある。そして今の知識が過去にあったらなと後悔している。それでも尚、まだ新たな領域に扉が開くのを日々感じている。扉が開ききった最終地点はどこなのか皆目見当つかない。
扉が開くことで過去の不可思議な出来事に納得できるようにはなった。常識では理解できない事も、人格障害であるならばキレイに説明出来てしまう面白さというのを最初は感じていた。その一方で、長年ワシを悩ませてきた事柄が、実はあれはそうだったんだと新たに気付いたりすることもある。そしてツライのは、それが人格障害が原因だという事がわかったとして、故にどうしようもない、手がつけられない、という事も理解している点である。病名が判明したが治療法がない、という状態である。結局、現状は変わらないという事になる。それがツライ。扉が開いたが故の別の苦悩である。
昔から読んでくれている人は気付いていると思うが、今、ほとんど人格障害者ウッキーについて触れる事がなくなった。自分の中で昇華してしまった部分もあるだろう。人格障害者キョショーという新鮮なネタが登場したという部分もあるだろう。しかし、これらはカサブタの層の殻の下に押し込まれているに過ぎないと思っている。ひとたび殻を破ればそこには鮮血がほとばしっており傷痕は一生消える事がないであろう。
しょせん人格障害者ウッキーも人格障害者キョショーも、こうしてブログのネタにしてバカに出来る程度のものでしかない。ワシにはもう一人、いや二人でセットかもしれないが、書くのも抵抗ある人格障害を知っている。これが人格障害だと気付いたのもここ近年のことで、新たに開いた扉のひとつである。人格障害について書いているならば、絶対に触れなければならない好例なのだが、もはや考えるのも嫌悪を感じる人格障害者っぷりなので、ずっと書こう書こうと思っていたが、そのままになっている。個人的な友人には軽く話したことはあるが、正直、正面きって書くのがしんどい。あくまで一般論で濁すのが心理的負担がなくて良いのだが、果てどうしたものかと思案している。
中途半端だが、これ以上に扉を開いても、その先に見えるのは、あまり美しい景色だとは思えなくなっている。
私の職業は正社員ではなく一人親方が多数を占めているもので、私を含め単なる請負労働者なのですが、この一人でも親方、独立してやっているというのが言葉のマジックで、人格障碍者らしき人がゴロゴロしています。聞くだけで香ばしい香りがしませんか?一人親方っていう響きが。
そして現状は簡単な現場ほど利益率が良いシステムになっているもので、そういった現場ほど自己愛的マウントの取り合いが激しいのです。
せんちさんの職業は人格障碍者のようなろくでもない輩も紛れてくると思いますが、どうやって間引いたり暴走させないようにコントロールをしていますか?
これは中村淳彦が書いていたのですが、
労働基準法に反してようが、組合が何と言おうが、
おかしい奴はすぐクビにすべきです。
古い例えですが、腐ったミカンを放置してはいけないですし、
どんな人であれ、その人がいないと現場が立ち行かないということは絶対にありません。
お久しぶりです。と言ってもあまりコメントも残していないので記憶にないと思いますが。
「僕」から「ワシ」に変わられたんですね。
自分的には、センチさんのイメージがスピッツの草野氏から竹内ピストルになりました(笑)。
ここのところTV以外で自己愛的な人間に会うこともなかったので平穏な日々を送っていたんですが、久々に出くわしたので覗いてみました。私自身はその人と深い関わりは無いので傍観しているだけですが、周りの人の話をよくよく聞くと「多分自己愛」と思えるものが多かったので、ここをみると良いよと伝えました。
竹内ピストル。。。知らなかったもので検索してみました(笑)
ワシ、似てると言われたのは狩野英孝、南原清隆、蟹江敬三、桂三枝かな。
竹内じゃなくて竹原でしたね。すみません。
このブログにたどり着き扉が開いた瞬間は目の前の靄が一気に晴れて光が差し込んだ様な気がしたのを今も覚えています。
コメントを書くことで救われ、わかってくれる人たちがいることで救われました。
このブログに出会えたこと扉が開いたことにとてもに感謝しています。
扉が開いたことで自己愛の行動は読むことが出来、対応も考えられるようになりました。
しかし扉が開いて光が差したのは一瞬で、見える景色も起こっていることも何も変わらないのですよね
ワシも、扉が開く前、他の人のブログを読んで、これだ!と声が出ました。
だけど、だからどうしたという気持ちになっています。
まさに病名わかれど治療法なしという状態で苦しんでいます。
お久しぶりです。
「病名わかれど~」
まさにその通りです。
アフリカのことわざにも
「善人しかいないと思っているなら
全ての人に会っていない」なんて
いうのがあるそうです。
自己愛に出会った→殺されずにすんだ
100点満点、それ以上はあリえないのかな…。
shizukuさんがモラハラで自殺したことを考えると、
直接手をくださずとも死に至らしめるまでやりかねない。
実際にワシもベランダから飛び降りたい気持ちです。
こんにちは
病名が判って気が楽になる、というのは
患ってる本人だから言えるのであって
我らの場合、患ってる本人は自覚がないし
困ってもいないんで治す気ゼロですもん
迷惑なのは、まわりの人だけ。
病原菌まき散らされて、こっちの方が具合悪いわい。
私は、扉の開く少し前から
キ●ガイ女のやり口が気になって
注意して観察していました
ヤツは、ほのめかすだけで自分の望むように
人を誘導する
ではなぜ人は、誘導されるのか?
長い付き合いの中、ヤツはいい人だ
ヤツに、よくしてもらって
感謝していると感じている人が多いからではないか?
ご承知のように、自己愛野郎は、外ヅラがいい
人の話を親身になって聞いてあげるフリがうまい
そこで考えたのは
ヤツに勝つためには、ヤツ以上に
人々から感謝される人間になるしかないという事では?と。
実践しましたよ
今までは、「等身大の自分でいっか。
わかる人は、わかってくれる。」
なんて、寝ぼけた事を思っていたが
悠長なこと言ってる場合じゃなかった
わからん人々に、わからせなくてはならないのだ。
私は親切で、誠実で信頼のおける人間だと。
選挙前の立候補者のように
愛想振りまき、朝も昼も夜もかけまわって
握手握手また握手!それくらい自分をアピールし
人々の心を掴まないと、キ●ガイには勝てない
ヤツは自ら手をくださない
周りの人間を使って策略カマしてくる
だから、周りの人々が「私か、ヤツか」
二者選択を迫られた場合
私を選ぶような土壌を、日頃から作っておかなきゃ。
現在も、引き続き がんばり中です
せんちさん、こんばんは。
このブログで救われた一人です。
扉の先の景色。
見えたのは、肉親もソレだったということでした。
あの頃はソレとはわからなかったけれど、でも明らかに不可解で。
思い切って、離れて正解だった。
ずっと一緒にいたら、完全に感化されていただろうから。
そして、子どもを持ちたくないと考える自分の謎も解けた。
私も同じことを子どもにしてしまうかもしれないという恐れを抱いていたのだと。
扉、開いてよかったです。
ありがとうございます。
*** オリーブさん
扉が開くことが第一段階。
それと気付いて、それにどう対応するか、
相手もそうだし、自分自身も。
子供に関してはセンシティブな問題です。
連鎖を断ち切ろうと努力している人、
自分で終わりにしようとしている人。
自己愛性人格障害(150) 毒親 その2
せんちさん、お返事ありがとうございます。
毒親シリーズは、何度も読ませていただいていました。
吉永小百合さんの言葉、とてもよくわかります。
自分にとって親とは、
たまたま居合わせた大人たちだという結論に至りました。
たまたまた居合わせた大人たちが人格障害だった。
だから離れた。
近所の迷惑なオジさんオバさんから離れた、みたいな。
以前は、血の繋がりやら何やらに支配されているような思いもありましたが、今はスッパリ断ち切れています。
思い出して憎むこともありません。憎むことはいつまでも心が縛られることだと気付いたからです。中島みゆきさんの歌にありますね。
亡くなっても、あぁ死んだか。くらいにしか思わないでしょう。
精神的に成熟した今思うことは、親と子というしがらみほどバカバカしいものは無いということです。
そんな連中ほっといて、自立して幸せに暮らすことが自分のためだと実感しています。
そして精神的に成熟した今なら、子どもが出来ても何の不安もなく愛せると思います。
しかし、年齢的に産むのは躊躇われます。
もう少し早くこの域に達していたなら。と思うこともありますが、私の思いを理解して尊重してくれた夫に感謝しながら暮らしていきます。
*** オリーブさん
関係を断ち切ったことで、親戚などから圧力や非難はありませんでしたか?
せんちさんへ
私の親は、とにかく外面が良くて、自分達のみっともないところを絶対に口外しません。
ですから、私がどうしたこうしたということは、親戚筋は知りません。
逆に、親思いの優しい子って事になっています。
私の実家は都内の下町で、かなり昔の代からこの地に暮らしています。
そのため、親戚関係の濃さには幼少の頃から悩ませられていました。
親戚の中には、さらにすごい連中もいます。
そういうのを見るにつけ、子どもながら恐怖を覚えていました。
*** オリーブさん
ありがとうございます。
なるほど、悪口を親戚中に振り撒くパターンとは別に、
外面を気にして口外しないというパターンもあるのですね。
話は逸れますが、今までワシは人格障害は遺伝しないという立場をとってきました。
しかし、今は、実は遺伝するのではと疑っています。
オリーブさんの親戚の中に更にツワモノがいるということで、
やはりそれが関係しているのかとも思っています。
せんちさん
お返事ありがとうございます。
私の両親は、とにかく見栄を張りたがりますので、
自分たちの落ち度になることは一切口外しないのです。
実際の私のことを口外することは、
「自分たちは子育てに失敗したダメ親」ということになりますから、
死んでもそんなことは言いません。
ですから、私は親思いのいい子だし、
私は将来実家に戻り、親の面倒を最後まで看たいんだそうです。
私の両親だけでなく、親戚一同みんなそんな感じです。
ものすごく外面がよくて、見栄っ張りで、
内輪ではよそ様の悪口を言いたい放題言っています。
よそ様の悪口に飽きると、
今度はそこにいない親戚の悪口を言い合うという、
なんとも奇妙な関係です。
もちろん、「ここだけの話」と言いながら悪口を言い合っています。
いろいろ探っていくと、親の祖父母が人格障害だったようで、
孫である私の親と兄弟たちは、その影響を受けていそうです。
せんちさんの「遺伝説」ですが、私も”ある”に一票です。
人格障害を持っている親から生まれ、人格障害を持っている親に育てられる流れから、
育った環境が最も影響するのだとは思います。
しかし、仕事柄、様々な人格障害者と接してきましたが、
遺伝を匂わせる雰囲気は常々感じていました。
私も、両親にだいぶ影響を受けた時期はありましたので、
両親の二の舞にならないよう、客観的に自分を見つめる目を持ち続けたいと思います。
オリーブさん
本ブログのリンクにある「自己愛性人格障害ガイド」によりますと、
http://narcip.com/about6/
http://narcip.com/genin1/
にありますように、生まれながらに持つ遺伝の要素が高いようです。
またその素養が発現する(自己愛性人格障害になる)ためには後天的要因も必要なようです。
http://narcip.com/genin2/
つまり、
自己愛の両親からはその資質を持つ子が生まれる確率は高く、
その子を自己愛が育てる事により資質が発現する場合が多いようです。
逆に言うと資質がないとそういう環境で育っても発現しないし、
資質があっても後天的要因が無い場合も発現しないようです。
Nowhere Manさんへ
コメントありがとうございます。
リンク、とても興味深いです。
読んでいて何度も頷きました。
自己愛の両親から生まれ、育てられることにより、
その資質が発現する。
あぁ、なんとも恐ろしいことです。
今はもう亡くなりましたが
私の父親は何らかの人格障害だったと思っています。
父親の血が自分に流れていると思うと今でもなんとも言えない嫌な気分になります。
自分は父親とは違う、あんな風には絶対になりたくないと思ってきましたが人格障害が遺伝するならば私にも人格障害の資質があるということですね
なんとも 恐ろしい事です。